スマホに放射線測定機能が標準装備されたら
NTT docomoは、放射線量測定機能のついたスマホカバーの試作機をつくったらしい(ここ)。果たしてこれが販売されるのかどうか分からないが、核実験たけなわの時代に育ち、「ガイガーカウンターごっこ」に興じて育った世代には感慨深いものがある。スマホでメール、スマホでウェッブ、そんな感覚でガイガーカウンター。放射性物質と放射線量が日常化されるということだろう。
人間のやることには、どこか喜劇的な要素が必ず伴うものだ。もしも、多くの人びとがもつスホで多くの人びとが、あちこちで、そしていろんなものの放射線量を測定できるようになったら、どんな喜劇的なシナリオが展開されるのだろうか。空想してみる。
(1)どこでも測定
測定できるということは、人、モノ、場所のどれが高い数値を示しているのかを知りたくなるのが人情である。たとえば、一般に放射線量の高いとされる地域からやってくる列車のホームあたりで、測定をはじめる愚か者が出現するだろう。この愚か者は、測定結果をツイートしたりして得意げになるだろう。その愚か者がやがてネットワーク化されて、専用のウェッブサイトができるかもしれない。どこそこの駅の何番ホームがやばいとか。すると、人権団体が黙っていられなくなるかもしれない。放射線量が高いとされる地域の人びとにたいする差別に繋がるとか。どこぞの政治家も「個人で放射線量を測定するのは望ましくない」、あるいは「禁止すべきだ」と言い始めるかもしれない。NTT docomoは窮地に陥る。一方で販売をやめろという声、他方で販売を支援する声。どうしたものか。新聞やテレビもこれを報じる。そして、「自分が身をおく環境の放射線量を知りたいという気持ちは理解できる」というぬるいコメントで締めくくる。
(2)日常化する放射線量
誰もが手軽に知りうる情報になってしまった放射線量は日常化する。もはや隠してもも仕方がない情報になる。だから、あらゆる食品、工業製品、情報に放射線量の項目が伝えられる。天気予報では、気温や湿度と同じ扱いで「全国の放射線量」「ピンポイント放射線量」が報じられる。最近は、洗濯指数なんかがあるくらいだから、放射線指数がイラスト入りで表示されるのかもしれない。低農薬、無農薬の野菜が店頭に並んでいるのだから低放射線、無放射線野の野菜が店頭に並んでも不思議ではない。「当店はいっさい化学調味料を使っていません」とドヤ顔のラーメン屋があるくらいだから、「当店はいっさい放射性物質入りの食品をつかっていません」と誇らしげなうどん屋が現れても不思議ではない。食品だけではない。工業製品もそれに追随するだろう。「工場出荷時の放射線量」の表示が推奨され、それをきちんと履行する企業は「健康にやさしい企業」の評判をとる。
(3)ホットスポットの全国化
きめ細かな素人による測定が蔓延すると、案外、全国のあちこちにホットスポットがあったりするかもしれない。こうなると、二つしか選択肢はない。一つは、もうあまり気にすることをやめる。何を食べても、どこで空気を吸っても、何を触っても、そこには多かれ少なかれ、放射性物質がある。それは、もう環境のなかの正規の構成要素だと考え始める。要は、塩分と同じである。とりすぎないように注意する。それしかない。成人一人あたりの一日の適正摂取量が公示され、健康診断でも測定項目の一つに加えられる。「少し放射性物質を控えてください」などと健康診断の結果に書き込まれる。もう一つは、放射生物質にたいする過剰な恐怖感から、精神的破綻を来すということだろうか。マスクをつけないと外出できない、手袋をはめないと何も触れない、公共交通機関を利用できなくなる、等々。「健康」と「生存」のために「生活の質」を犠牲にするということか。
人間は知られざることを気にかけることはない。知られざることは存在しないのと同様である。かつて紫外線がよくないという情報を私たちは知らなかった。子供も大人も夏になると、肌を露出させ浜辺で走り回り、あるいはマグロのように横たわって紫外線のシャワーを浴びていた。こんがり焼けることが、健康の証拠だと言わんばかりに。日焼け止めを愛用していたのはマイノリティだった。ところが今はどうだ。天気予報で紫外線に気をつけましょうなどと言われ、効くのかどうか分からない日焼け止めを塗りたくっている。かつて「当店のスープは栄養満点、残らずお召し上がりください」などと書いたラーメン屋があった。今はそんな店、どこにもないだろう。
時代は変わる。そして、人びとが生きていくための指針を構成する情報の組み合わせも変化する。そうした情報の種類が多くなり、高度に科学化されればされるほど、生きることがストレスフルになるのかもしれない。地震の予知ができるかもしれないとわかると、やたらとみたこともない活断層が気になる。「もしも、大地震がきたらどうするのか」と考えるようになる。非常食やペットボトルの水を買い込み、点検を怠らない素直な人もいるのではないか。昔なら、地震も津波も天罰だったり(こんなことを口にして怒られた政治家がいたが)、運命だったりしたのだろう。だからこそ、その天罰も運命もみんなで分ちあうということが可能だったのかもしれない。今は、そんな理不尽なことを言う人はいない。ふりかかるであろうどんな災厄にも原因があるから、そこから逃れる術があると考えられている。原因が同定できれば、それがいつのまにか責任に置き換えられ、誰かが追求されずにはすまなくなる。じつにストレスフルな時代であり、未来だと思う。
人間のやることには、どこか喜劇的な要素が必ず伴うものだ。もしも、多くの人びとがもつスホで多くの人びとが、あちこちで、そしていろんなものの放射線量を測定できるようになったら、どんな喜劇的なシナリオが展開されるのだろうか。空想してみる。
(1)どこでも測定
測定できるということは、人、モノ、場所のどれが高い数値を示しているのかを知りたくなるのが人情である。たとえば、一般に放射線量の高いとされる地域からやってくる列車のホームあたりで、測定をはじめる愚か者が出現するだろう。この愚か者は、測定結果をツイートしたりして得意げになるだろう。その愚か者がやがてネットワーク化されて、専用のウェッブサイトができるかもしれない。どこそこの駅の何番ホームがやばいとか。すると、人権団体が黙っていられなくなるかもしれない。放射線量が高いとされる地域の人びとにたいする差別に繋がるとか。どこぞの政治家も「個人で放射線量を測定するのは望ましくない」、あるいは「禁止すべきだ」と言い始めるかもしれない。NTT docomoは窮地に陥る。一方で販売をやめろという声、他方で販売を支援する声。どうしたものか。新聞やテレビもこれを報じる。そして、「自分が身をおく環境の放射線量を知りたいという気持ちは理解できる」というぬるいコメントで締めくくる。
(2)日常化する放射線量
誰もが手軽に知りうる情報になってしまった放射線量は日常化する。もはや隠してもも仕方がない情報になる。だから、あらゆる食品、工業製品、情報に放射線量の項目が伝えられる。天気予報では、気温や湿度と同じ扱いで「全国の放射線量」「ピンポイント放射線量」が報じられる。最近は、洗濯指数なんかがあるくらいだから、放射線指数がイラスト入りで表示されるのかもしれない。低農薬、無農薬の野菜が店頭に並んでいるのだから低放射線、無放射線野の野菜が店頭に並んでも不思議ではない。「当店はいっさい化学調味料を使っていません」とドヤ顔のラーメン屋があるくらいだから、「当店はいっさい放射性物質入りの食品をつかっていません」と誇らしげなうどん屋が現れても不思議ではない。食品だけではない。工業製品もそれに追随するだろう。「工場出荷時の放射線量」の表示が推奨され、それをきちんと履行する企業は「健康にやさしい企業」の評判をとる。
(3)ホットスポットの全国化
きめ細かな素人による測定が蔓延すると、案外、全国のあちこちにホットスポットがあったりするかもしれない。こうなると、二つしか選択肢はない。一つは、もうあまり気にすることをやめる。何を食べても、どこで空気を吸っても、何を触っても、そこには多かれ少なかれ、放射性物質がある。それは、もう環境のなかの正規の構成要素だと考え始める。要は、塩分と同じである。とりすぎないように注意する。それしかない。成人一人あたりの一日の適正摂取量が公示され、健康診断でも測定項目の一つに加えられる。「少し放射性物質を控えてください」などと健康診断の結果に書き込まれる。もう一つは、放射生物質にたいする過剰な恐怖感から、精神的破綻を来すということだろうか。マスクをつけないと外出できない、手袋をはめないと何も触れない、公共交通機関を利用できなくなる、等々。「健康」と「生存」のために「生活の質」を犠牲にするということか。
人間は知られざることを気にかけることはない。知られざることは存在しないのと同様である。かつて紫外線がよくないという情報を私たちは知らなかった。子供も大人も夏になると、肌を露出させ浜辺で走り回り、あるいはマグロのように横たわって紫外線のシャワーを浴びていた。こんがり焼けることが、健康の証拠だと言わんばかりに。日焼け止めを愛用していたのはマイノリティだった。ところが今はどうだ。天気予報で紫外線に気をつけましょうなどと言われ、効くのかどうか分からない日焼け止めを塗りたくっている。かつて「当店のスープは栄養満点、残らずお召し上がりください」などと書いたラーメン屋があった。今はそんな店、どこにもないだろう。
時代は変わる。そして、人びとが生きていくための指針を構成する情報の組み合わせも変化する。そうした情報の種類が多くなり、高度に科学化されればされるほど、生きることがストレスフルになるのかもしれない。地震の予知ができるかもしれないとわかると、やたらとみたこともない活断層が気になる。「もしも、大地震がきたらどうするのか」と考えるようになる。非常食やペットボトルの水を買い込み、点検を怠らない素直な人もいるのではないか。昔なら、地震も津波も天罰だったり(こんなことを口にして怒られた政治家がいたが)、運命だったりしたのだろう。だからこそ、その天罰も運命もみんなで分ちあうということが可能だったのかもしれない。今は、そんな理不尽なことを言う人はいない。ふりかかるであろうどんな災厄にも原因があるから、そこから逃れる術があると考えられている。原因が同定できれば、それがいつのまにか責任に置き換えられ、誰かが追求されずにはすまなくなる。じつにストレスフルな時代であり、未来だと思う。
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