AF Micro Nikkor 105mm f/2.8D リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ - 12月 05, 2019 LM-EA7が来てから、あまり使う機会がなくて防湿庫に眠っていたニコンのDレンズに再び出番が。このアダプターは撮影時に絞りリングが必要だからだ。 久しぶりに生駒山スカイラインへ。マクロレンズだが、α7RIII + LM-EA7 との組み合わせで、遠景の描写を確かめたかった。D750で使っていたのでレンズ自体の性能はわかっているつもりだが、アダプター経由で、しかも疑似AFではどうか。 まずは道路沿いの紅葉を少し離れたところから。 続いて西側の大阪の街並み。高層ビル群がよく写っている。 生駒山の山上を展望台から狙ってみた。放送施設の塔がよく見えている。 展望台の鐘。被写体まで2〜3 メートルといったところか。鐘の細部まできっちり写り、背景のボケはご覧の通り。 Dレンズなかなかいい。動きものをAFで追うには、このアダプターでは厳しいが、風景ならわりと正確にピントがきている。今度はAF Nikkor 18-35mm f3.5-4.5Dでも試してみるか。 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ コメント
鉄の女 - 3月 24, 2012 映画を観てきた。リアルタイムで記憶に残る政権。彼女が政権についたのは、ちょうど大学2年のときだったか。様々な評価があった。新自由主義、新保守主義など、彼女の政策や思想や行動に貼りつけられたラベルも様々だったし、賛否両論だった(今でもそうだろう)。高度成長を前提として組み立てられた政策体系を揺さぶろうとする彼女の姿勢には、批判的なものが多かったような気がする。 政治家や政党は、何らかの集団(階級)の利益の擁護者、代弁者、悪くすると操り人形であるかのような見方が、まだ影響力をもっていたように思う。だから、労働組合にたいして厳しい態度をとった彼女は、もっぱら労働者階級の敵であり、大金持ちや大企業の代弁者であるといった、シンプルな分析も多かったように思う。 けれども、それでは割り切れない何かをもっていた。フォークランド戦争のときにみせた国家主権への強いこだわり、自助や個人および家族の責任を重視する態度は、その自由化指向とはたして整合するのか。そんな疑問をなげかける論者も多かったように記憶する。 政治は集団間の力学の観点からみるのか、それとも政治家個人のキャラクターからみるのか。当時は、政治家のキャラクターに焦点を据える見方は、どこか古臭い、科学的ではない政治学だと考えられていたし、今でもおそらくそうなのだろう。映画は、それでは面白くない。だから、鉄の女の人生やキャラクターに焦点が据えられる。けれども、やはりあれだけ強烈な個性をもった政治家、その政治家が率いた政党、その政党が国をリードしていた時代を読み解くには、集団間の均衡や対立やの構造だけでなく、あるいはそれ以上に、リーダーのキャラクターをみなければ、本当のところは分からないのだろうと感じる。 鉄の女は二つの特権階級に挑戦した。トーリー内の伝統的な特権階級が一つ。そして、20世紀にのしあがった新しい特権階級であり、それが抬頭した当初は弱者であり貧者であったが、その当時の看板を掲げ続けたレイバーという特権階級。既得権と既得権が相譲らず、既得権の構造そのものをともに堅持しようとして膠着状態にあったその時に、二正面作戦を断行したのが鉄の女だった。 印象に残った台詞。感情や気持ち(feelings)ではなく、大事なのは何を考えているか(ideas and thoughts)である。情緒や気持ちや感情は、移ろ... 続きを読む
Yashica Elevtro 35 CCN - 6月 26, 2017 中古カメラ店で1000円ちょっとで購入。「現状渡し」なので、動作するのかどうかわからなかったが、買ってすぐバッテリーを入れてみると、少なくとも露出計は生きているようだった。低速シャッターがちょっと怪しい感じはしたが。 35mmの広角よりのレンズで、f/1.8と明るい。何でも発売時には「ろうそくの火だけで写せる」と暗所に強いことをアピールしていたそうだ。マニュアルフォーカスでフラッシュもついておらず、筐体は金属製。小さいくせに重みがあり、それがまた安定感につながっている感じがする。 早速、職場へ行く道すがら、ありかちでシャッターを押してみた。露出は絞り優先オートのみでマニュアル撮影はできない。露出がアンダーだったりオーバーだったりすると、ファインダー内に矢印が表示されて、その指示に従って絞りリングを回してやればよい。シャッター音は「プチ」みたいな感じで、やや心もとない。本当にシャッターが切れているのかどうか不安になる。 まず一枚目。京都駅前に赤い観光バスが待機中。空は快晴。バスの赤い色が鮮やかだ。コンパクトなレンジファインダーカメラは、家庭用として誰でもそこそこの写真が撮れるように設計されているのだろう。合焦も楽。フィルムはISO100の業務用の安いやつ。それでもこれだけの色合いが出せれば立派なものだと思う。 駅から新町通りを歩いて北へ。軒先のハンギングにピントをあわせる。暗部が潰れてしまっているが、それほど不満ではない。本当に何も考えずにシャッターを切るだけ。お散歩カメラに最適。今はもっと軽くて小さいデジカメがあり、1インチセンサーを積んだものだと、そこそこの写真が撮れる。だから、わざわざこの手のフィルムカメラを使う理由はあまりないような気がする。 けれども、よく言われるように、デジカメだとやたらと雑にシャッターを切って、結局、たいして気に入った写真がみつからないということもしばしば。フィルムは何と言ってもコスト高だ。フィルムを買って現像に出して、とお金がかかる。入魂、などと大げさなことは言わないが、気軽にシャッターを切りながらも、出来上がりの写真を想像してファイダー内に風景を収めるのは、それはそれで楽しみでもある。 そうこうするうちにかなり北まで来てしまった。北野天満宮の境内。修学旅行生で年中賑わっているところ。手前の木の... 続きを読む
スマホに放射線測定機能が標準装備されたら - 9月 22, 2011 NTT docomoは、放射線量測定機能のついたスマホカバーの試作機をつくったらしい( ここ )。果たしてこれが販売されるのかどうか分からないが、核実験たけなわの時代に育ち、「ガイガーカウンターごっこ」に興じて育った世代には感慨深いものがある。スマホでメール、スマホでウェッブ、そんな感覚でガイガーカウンター。放射性物質と放射線量が日常化されるということだろう。 人間のやることには、どこか喜劇的な要素が必ず伴うものだ。もしも、多くの人びとがもつスホで多くの人びとが、あちこちで、そしていろんなものの放射線量を測定できるようになったら、どんな喜劇的なシナリオが展開されるのだろうか。空想してみる。 (1)どこでも測定 測定できるということは、人、モノ、場所のどれが高い数値を示しているのかを知りたくなるのが人情である。たとえば、一般に放射線量の高いとされる地域からやってくる列車のホームあたりで、測定をはじめる愚か者が出現するだろう。この愚か者は、測定結果をツイートしたりして得意げになるだろう。その愚か者がやがてネットワーク化されて、専用のウェッブサイトができるかもしれない。どこそこの駅の何番ホームがやばいとか。すると、人権団体が黙っていられなくなるかもしれない。放射線量が高いとされる地域の人びとにたいする差別に繋がるとか。どこぞの政治家も「個人で放射線量を測定するのは望ましくない」、あるいは「禁止すべきだ」と言い始めるかもしれない。NTT docomoは窮地に陥る。一方で販売をやめろという声、他方で販売を支援する声。どうしたものか。新聞やテレビもこれを報じる。そして、「自分が身をおく環境の放射線量を知りたいという気持ちは理解できる」というぬるいコメントで締めくくる。 (2)日常化する放射線量 誰もが手軽に知りうる情報になってしまった放射線量は日常化する。もはや隠してもも仕方がない情報になる。だから、あらゆる食品、工業製品、情報に放射線量の項目が伝えられる。天気予報では、気温や湿度と同じ扱いで「全国の放射線量」「ピンポイント放射線量」が報じられる。最近は、洗濯指数なんかがあるくらいだから、放射線指数がイラスト入りで表示されるのかもしれない。低農薬、無農薬の野菜が店頭に並んでいるのだから低放射線、無放射線野の野菜が店頭に並んでも不思議ではない。「当店はいっさい化学... 続きを読む
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