大学全入の虚構

大学全入時代について、産経新聞に京都大学の佐藤氏の短いコメント。言われる通りだと思う。全入時代というのは、あまりあてになる標語ではない。選ばなければ誰でも大学に入れる―この言い方が、実はミスリーディングだと思う。

このコメントの焦点は、いわゆる学力低下問題。その原因が実質的な学力考査を経ない入学者の割合の増大にあることも間違いない。しかし、もう一つ別の傾向を、ここに重ねあわせてみる必要がある。過日の報道によると、大学で学ぶ費用を家計に依存する学生の割合がどんどん減っているらしい。半数以上が何らかの奨学金を得て学んでいる。これはこれで結構なことだと思う。しかし、国公私立のどれをとっても学費は高額で、大学へ通う若者の背後に、勉学意欲があり、能力もありながらも、それを断念している若者が増えているのではないかという懸念が拭えない。だから大学全入ではない。選ばなければ誰でも行けるなんてことにはなっていない。行きたくても行けない若者の存在をちゃんとみるべきだろう。

だから、「平均」の概念を理解しているかどうか等の初歩的で基礎的な学力についての調査を、同年代の大学進学者と非進学者との両方でやってみてはどうかと思う。両者のあいだで、「平均」を理解していない者の割合はそう変わらないとか、事によると、非進学者の方がよく「平均」を理解しているとか、そんな結果が出てきてもおかしくはないと思う。大学進学者がエリートだったのは、すでに遠い昔のこと。そして、相対的に学力が上位にあった層が大学に進学するというのも、すでに神話化しつつある。勉学する意欲も能力もなく、家計に恵まれた者が進学する。こういう事態は、昔からあるにはあったが、それがどんどん露骨になっている可能性はないだろうか。

日本は、高等教育にかかる費用を家計に委ね続けてきた。奨学金の制度は貧弱で、学費は高額である。国公私立間の「格差」を縮めるという、それ自体は正当であるが、不条理な結果(国公私立のいずれもが高学費になるという結果)をもたらした基本方針を堅持してきたからだ。その方針が転換されようとしているという報道もあった。

しかし、これは悩ましい。800近くもの大学がある。そのすべてを無償になんてできっこないし、それだけのボリュームの奨学金を用意することも難しい。要するに、本格的な大学選別を開始しなくてはならない。いろいろ方法はあるだろう。

(1)旧帝国大学プラスαの有力国立大学を無償にする
(2)そのバリエーションで、無償化の恩恵に浴する国公立大学をもう少し広げる(限界はあるだろうが)

いずれも私立大学は窮地にたつ。潤沢な基金や資産をもつ私立大学は日本にはほとんどない。学納金が主要な収入だから、学納金を引き下げるとたちまち経営が困難になる。だから、不条理なことに、高等教育の無償化に大学が反対するといった奇妙な構図が浮上しそうな気配がある。

でなければ、奨学金制度の変更しかない。たとえば、一定の学力水準が認定された者にたいして、入学した大学の授業料に相当する額を奨学金として支給する(給付)。センター試験の得点率で線を引けばこれはすぐにできる(たとえば得点率80%)。学生は国公私立のどの大学に入学してもかまわない。これをかりに「プレミアム学生」と呼ぼう(給付奨学金付学生)。特色ある教育をしている私立大学ならば、プレミアム学生にたいする吸引力があるはずである。逆に、名ばかりで粗雑な教育しかしていない大学は、国公立大学であっても敬遠されるかもしれない。
だから、これは大学の改善意欲を引き出せる制度でもある。

このプランならば、私立大学も反対しにくいだろう。あとは制度の微調整だけだ。入学時の学力だけでよいのか。入学後にも奨学金継続の可否を判断する、何らかの「テスト」が必要ではないのか。入学時に「プレミアム」になれなくても、入学後の頑張りで「プレミアム」になれる道が開かれているべきではないのか。

いずれにせよ、ルールをつくる、変えることは、それに利害関係をもつ個人や集団の戦略的行動を引き出す効果がある。その行動を、大学という制度そのもの、個々の大学、受験生、学生、そして親たちの満足化に向かうよう設計すればよいだけである。家計状況の制約を最小化して、意欲と能力のある若者を高等教育が受け入れられる制度にする。これが原則であることには変わりない。もしも、いまそうなっていない、あるいは逆の事態が起こりつつあるのであれば、ルールそのものを大急ぎで修正すべきだと思う。

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