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鉄の女

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映画を観てきた。リアルタイムで記憶に残る政権。彼女が政権についたのは、ちょうど大学2年のときだったか。様々な評価があった。新自由主義、新保守主義など、彼女の政策や思想や行動に貼りつけられたラベルも様々だったし、賛否両論だった(今でもそうだろう)。高度成長を前提として組み立てられた政策体系を揺さぶろうとする彼女の姿勢には、批判的なものが多かったような気がする。 政治家や政党は、何らかの集団(階級)の利益の擁護者、代弁者、悪くすると操り人形であるかのような見方が、まだ影響力をもっていたように思う。だから、労働組合にたいして厳しい態度をとった彼女は、もっぱら労働者階級の敵であり、大金持ちや大企業の代弁者であるといった、シンプルな分析も多かったように思う。 けれども、それでは割り切れない何かをもっていた。フォークランド戦争のときにみせた国家主権への強いこだわり、自助や個人および家族の責任を重視する態度は、その自由化指向とはたして整合するのか。そんな疑問をなげかける論者も多かったように記憶する。 政治は集団間の力学の観点からみるのか、それとも政治家個人のキャラクターからみるのか。当時は、政治家のキャラクターに焦点を据える見方は、どこか古臭い、科学的ではない政治学だと考えられていたし、今でもおそらくそうなのだろう。映画は、それでは面白くない。だから、鉄の女の人生やキャラクターに焦点が据えられる。けれども、やはりあれだけ強烈な個性をもった政治家、その政治家が率いた政党、その政党が国をリードしていた時代を読み解くには、集団間の均衡や対立やの構造だけでなく、あるいはそれ以上に、リーダーのキャラクターをみなければ、本当のところは分からないのだろうと感じる。 鉄の女は二つの特権階級に挑戦した。トーリー内の伝統的な特権階級が一つ。そして、20世紀にのしあがった新しい特権階級であり、それが抬頭した当初は弱者であり貧者であったが、その当時の看板を掲げ続けたレイバーという特権階級。既得権と既得権が相譲らず、既得権の構造そのものをともに堅持しようとして膠着状態にあったその時に、二正面作戦を断行したのが鉄の女だった。 印象に残った台詞。感情や気持ち(feelings)ではなく、大事なのは何を考えているか(ideas and thoughts)である。情緒や気持ちや感情は、移ろ

大学全入の虚構

大学全入時代 について、産経新聞に京都大学の佐藤氏の短いコメント。言われる通りだと思う。全入時代というのは、あまりあてになる標語ではない。選ばなければ誰でも大学に入れる―この言い方が、実はミスリーディングだと思う。 このコメントの焦点は、いわゆる学力低下問題。その原因が実質的な学力考査を経ない入学者の割合の増大にあることも間違いない。しかし、もう一つ別の傾向を、ここに重ねあわせてみる必要がある。過日の報道によると、大学で学ぶ費用を家計に依存する学生の割合がどんどん減っているらしい。半数以上が何らかの奨学金を得て学んでいる。これはこれで結構なことだと思う。しかし、国公私立のどれをとっても学費は高額で、大学へ通う若者の背後に、勉学意欲があり、能力もありながらも、それを断念している若者が増えているのではないかという懸念が拭えない。だから大学全入ではない。選ばなければ誰でも行けるなんてことにはなっていない。行きたくても行けない若者の存在をちゃんとみるべきだろう。 だから、「平均」の概念を理解しているかどうか等の初歩的で基礎的な学力についての調査を、同年代の大学進学者と非進学者との両方でやってみてはどうかと思う。両者のあいだで、「平均」を理解していない者の割合はそう変わらないとか、事によると、非進学者の方がよく「平均」を理解しているとか、そんな結果が出てきてもおかしくはないと思う。大学進学者がエリートだったのは、すでに遠い昔のこと。そして、相対的に学力が上位にあった層が大学に進学するというのも、すでに神話化しつつある。勉学する意欲も能力もなく、家計に恵まれた者が進学する。こういう事態は、昔からあるにはあったが、それがどんどん露骨になっている可能性はないだろうか。 日本は、高等教育にかかる費用を家計に委ね続けてきた。奨学金の制度は貧弱で、学費は高額である。国公私立間の「格差」を縮めるという、それ自体は正当であるが、不条理な結果(国公私立のいずれもが高学費になるという結果)をもたらした基本方針を堅持してきたからだ。その方針が転換されようとしているという報道もあった。 しかし、これは悩ましい。800近くもの大学がある。そのすべてを無償になんてできっこないし、それだけのボリュームの奨学金を用意することも難しい。要するに、本格的な大学選別を開始しなくてはならない。いろい

Fusso Smartphone

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iPhoneやiPadのディスプレイは頑丈なガラスでできているので、そう簡単に傷はつかないと言われる。ために、落下させたか何かでひび割れた状態の写真をみると、ちょっと心配になるが、できれば保護フィルムを貼らないで使いたい。しかし、使い込んでいくと、傷などの損傷は別として、すべりが悪くなったり、汚れがなかなか落ちにくくなったりする。だから、仕方なく保護フィルムを貼っていた。 保護フィルムを貼るのは面倒だ。風呂場で貼ればよいとか、いろいろ工夫の余地はあるが、どうしてもいくつか小さな埃が入ってしまって、そこが気泡になって見苦しい。フィルムも劣化するし、貼り替えるときにまた苦労するのはなんとも気が重い。いっそ、全体をコーティングできるようなのが出ないのかと思っていたら、このFusso Smartphoneが出た。傷の防止には役にたたないだろうが、すべりを保持して汚れを落ちやすくする効果があると言う。で、さっそく使ってみた。 塗布するのは簡単で、数滴たらしてティッシュかなにかで満遍なくのばしていくだけ。8〜12時間、放置しておくこととあるので、就寝前に作業すれば翌朝には完成。これはほんとすごい。ディスプレイが鏡面のようになるし、指紋のあとがついても、さっと拭き取れば綺麗になる。調子にのってiPadにも塗布した。 ちょっと気になるのは、スタイラスペンの使用感。気のせいかもしれないが、少しペンの反応が

新しいiPad - じっとアプリの更新を待つ -

「新しいiPad」が来て数日。Retinaディスプレイは美しいと思う。だが、アプリの多くがまだ、このディスプレイに対応していない。iPadを使う主目的は、自炊本の読書と手書きのメモ作成。自炊本の読書といっても、PDFに赤線を引いたり、書き込みをつけたりするのが目的だった。neu.Annotate+なんかを便利に使っていたのだが、Retinaディスプレイになって、スタイラスペンがまったく使えなくなってしまった。いずれバージョンアップで対応してくれるのかもしれないが。 手書きのノートも悲惨。neu.Notes+がやはりぜんぜんダメ。UPADもほとんど使えず。美しいディスプレイに感心する一方で、かなり凹んでいる。3月中に何とかなって欲しいのだが、それが無理なら、しばらくiPad2を使い続けることになるのだろう。 ただ、自炊本の読書にかんしては、最近はもっぱらGalaxy Noteを使っている。細いペンが本体に格納できて、とても便利だ。アプリはezPDF。iPhone/iPad版もあるが、Android版の方がはるかに優れている。線や文字の書き込みもスムースで、大満足。ブックリーダーとしては、ややディスプレイが小さいので、iPadが進化して、同じくらい快適になればいいと思ったのだが、今のところ期待はずれ。